「『人間失格』を読んで」(『人間失格』太宰治 著)
2年9組 片山 栞
読む前から多少は予想していたが、それにしても暗いものであった。普通の人間であれば、何も疑問をもたない日常に疑問を感じ、作者は恐怖していたのだ。
(中略)
空腹を感じ、何かを食べたらそれが満たされる、人間が当たり前のように感じているその感覚が、作者には理解できなかったのだ。それどころか、食事というものに対して恐怖さえ感じていた。私は、そんな作者のことを極めて異端な人だと感じ、その印象は結局最後まで続くこととなった。成長していくにつれて、作者は人間そのものに対して恐怖するようになった。
(中略)
どこまでも陰惨で、その一生に幸福というものは果たして存在したのだろうかと、そう感じざるを得なかった。幸福のない人生、ただ恐れ逃げるだけの人生、それを人間の一生と言えるのだろうか。実際、作者も自身のことを「人間失格」だと表現しているではないか。
しかし、こんな一言も見つけた。「弱虫は、幸福をさえおそれるものです。」
作者の一生に、幸福は存在していたのだ。ただ、幸福は永遠にあるものではない、いつか失う時がくる。作者は、それを恐れていたからこそ自ら幸福を拒絶し、幸福を失う大きな悲しみから逃げていたのではないだろうか。それこそが、作者にとって唯一の生きていく術であり、彼の選んだ生き方だったのだ。だから、食事というものにさえ彼は恐怖していた。食事によって得られる幸福も、時間が経てば失うことになり、また空腹という苦しみを味わわなければならない。作者は限りある幸福と、それを得るために苦しむことを恐れたのだろう。そして作者は、他人から尊敬されることをも拒んだ。他人からの尊敬を失うことを恐れるがゆえに、誰からも尊敬されない、そんな生き方を選んだのだ。作者の一生に幸福が存在しなかったのではなく、存在していたはずの幸福を受け入れる勇気が作者には無かったのである。
人は、幸福を求めて生きる。しかし、幸福の多くは、何らかの努力によって手に入れられるものである。努力することで幸福を手にし、それを失えばまた新たな幸福のために努力する。そうして生きていくことこそが、人間であるということなのではないだろうか。生きることの苦しみを知っているからこそ、生きることの喜びを感じられる。それと同じように、手に入れるための苦しみと失うことの悲しみを受け入れて初めて幸福は成り立つのだ。苦しいことや辛いことから逃げようとする弱さと闘い、乗り越えていく。それが、「生きる」ということなのである。
もし、作者に「生きる」ことを受け入れる勇気があったとしたら、彼はまた違った人生を歩んでいただろう。しかし、最後のページに作者はこう書いている。「いまは自分には、幸福も不幸もありません。」作者は、人間であることを受け入れることができなかった。そんな作者の一生には、自身が言ったように、幸福も不幸も存在しない。やはり「人間失格」だったのだ。
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